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Freischwimmerはドイツ語で
『自由を泳ぐ人、自由に生きる人』という意味です。 自由に憧れを持ちながら、皆さんにライフスタイルの 提案をしていく中、日々を綴ったものです。 |


先日、東京に出張し、帰りの飛行機に乗る為に向かった
空港での出来事。
エスカレーターに乗ろうとした時、男性2人組のうちの
1人が私の横に並んだ。
もう1人が、先に歩いていた男性を引っ張って、私が先に
歩けるようにしてくれた。
『おまえな、まわりを良く見て歩けよ。こういう気遣いが
大事なんだよ。もっと気が遣える人間になれよ!』
と、先に歩いていた男性に小声で1言・・・
なんて男前な発言なんだと関心したのと同時に、私も考え
させられることが沢山(>_<)
私も気の遣える人間にならねばっ♪

昨日は、知り合いの女性事業家さん達6人で夕飯を
ご一緒させて頂きました
山口市の台湾料理のお店 恒豐館【コウホウカン】に
行ってみました
麺がもちもちで、スープも最後まで飲み干したいくらい
美味しいの1言

女性実業家の方達は、会話の途中にも人としての
在り方がにじみ出ていて、気遣い、配慮、
考え方 etc・・・とても素敵で、プラスになることが
満載です
皆さんからの気付きも自分の栄養にしていきたいと
思います
そして、ここのお店のオーナーさんと知り合いの方が
『ちぐまや見ましたよ!』と声を掛けたところ、
『TVに出ちゃってすみません』と恐縮されている姿が
とてもおちゃめで親しみやすく、また行きたいお店の
1つになりました









昨日は、早歩きで夕方からのウォーキング
19時に出発すると、外は暗くなりかけて、色っぽい雰囲気に
なっています
それからしばらくすると、田舎なので、かなりの暗さ(笑)
しかも、コースの検討をしてみたところ、外灯と歩道が
確保されている道を歩こうとすると、2パターンしかない
ことが発覚
国道191号線沿いか316号線沿いの2パターン
結局、どっちも歩き、1時間半・・・
足が張っていましたが、終わった後1本のチューハイを堪能
何の為に歩いたかは疑問(笑)
とはいえ、最近は、今までとは違い、色々と見直しています
・間食を減らす
・質を見直す(パンよりはご飯、炭水化物は控えめに、野菜を
多めに)
・運動をする
・腹筋をする
・血糖値が急激に上がらない食べ方をする etc・・・
今度こそ、習慣化させて、いらない脂肪を減らします


感動したお話の紹介です
その先生が五年生の担任になった時、 一人、服装が不潔で
だらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するように
なっていた。
ある時、少年の一年生からの記録が目に止まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、
将来が楽しみ」とある。
間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。
二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、
時々遅刻する」と書かれていた。
三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で
居眠りする」
三年生の後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、
悲しんでいる」とあり、四年生になると「父は生きる意欲を
失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」
先生の胸に激しい痛みが走った。
ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いて
いる生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。
先生にとって目を開かれた瞬間であった。
放課後、先生は少年に声をかけた。
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強して
いかない?分からないところは教えてあげるから」
少年は初めて笑顔を見せた。
それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に
続けた。
授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びが
わき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。
クリスマスの午後だった。
少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。
亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと
飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「ああ、お母さんの匂い!きょうはすてきなクリスマスだ」
六年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った
中で一番すばらしい先生でした」
それから六年。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当して
貰って、とても幸せでした。おかげで奨学金を貰って医学部に
進学することができます」。
十年を経て、またカードがきた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた
体験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、
こう締めくくられていた。
「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのまま
だめになってしまう僕を救って下さった先生を、神様のように
感じます。
大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、
五年生の時に担当してくださった先生です」
そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
「母の席に座ってください」
と一行、書き添えられていた。
「あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、
神様のように感じます。」
こう、何年もの時を経てもまだ、神様のよう、と感謝され
続ける先生。
彼女がしたのは、この不幸な生徒を心から受け容れて愛情
深く接するということだけでした。
でも、それが、何よりの救いであり、希望ともなった。
ものすごくいろんなことを教えてくれる話です。




それにまつわる記事です↓↓
「1997年の代表監督の時にも、脅迫状や脅迫電話が止まらないという
状態を経験していましたからね。あの時は24時間、家の前にパトカーが
止まっていて、子供たちが学校へ行くのも危険だから、送り迎えをして
ほしいと言われました。テレビで親父がボロカスに言われているのを見て、
子供らは泣いていましたね。それで今回のバッシングに関しては、結局、
開き直るといいますかね。
今の自分にできること以外はできないと。全力を尽くしてダメだったら、もう
しょうがない、と腹を括りました。」
確かに最初の日本代表監督の時には大変なバッシングだったのを覚えて
います。
しかし、その経験があったからこそ自分は成長できたのだと言います。
「何しろ、自分が監督経験もない中で、突然、日本代表の監督になったん
ですからね。私が41歳の時ですが、あの時は本当に想像を絶する大変さ
でした。プレッシャーといい、家族が味わった大変さといい、あの経験が
全てを変えてくれたというか、自分を強くしてくれましたね。コーチが何を
言おうが、決断するの自分ひとりですから。」
そして何よりも家族のありがたみを痛感したそうです。
「あの時改めて感じたのは、家族のありがたみです。日本中の人が僕を
批判しても、家族だけは「ご苦労さん」と迎えてくれるという安心感があり
ました。それがなければ、きっと一人では耐えられなかっただろうと
思うんです。」
そして、そういった強烈な逆境を体験してこういったことが分かったそう
です。
「何事にせよ、皆必要であるからこそ、起こってくるものだと思うんです。
今まで僕がスランプに陥ったり、世間から叩かれたりした時を考えて
みても、その後を見ると必ず上へと上がっているんです。」
なので、例えばスランプに陥った選手が「自分はダメかもしれない」
と思っていてもこうアドバイスをしてあげられるそうです。
「そうじゃない。今よりも高いところへ行くために落ちてるんだ。ジャンプ
する時には一回しゃがむだろう。」
この記事を読んでから、あの手紙を再度読み返してみるとより深く心に
響きました。
南アフリカの父へ
お父さん、元気ですか。
ごはん、ちゃんと食べていますか?
ちゃんと眠れていますか?
お父さんが岡田監督として難しい顔をしている姿、毎日テレビで見て
います。
たいへんな時が続きますね。
日本中の人の夢や期待を背負ったチームの監督としてピッチに立っている
お父さん。
私には想像もつかないようなプレッシャーと闘っているお父さん。
この間の試合の後、ますます厳しい顔をしているのを見て、お父さんらしい
と思いました。
お父さんが誰よりも真剣に、サッカーを考えていること。
サッカーを愛していること。
そして、覚悟を持って仕事をしていること。
私は知っています。
だから、信じています。
今日はいよいよオランダ戦ですね。
南アフリカのお父さんに、私たち家族ができることは少ないけれど
精一杯、応援しています。
いつもありがとう。
お父さんは、私の誇りです。
娘より
